ココログ版ダイジェストVOL8

(05/04/19)

            
ココログ版ダイジェスト8号です。

「新年にあたりまして─上杉鷹山公の精神」「白布の野猿」「「やまけんの出張食い倒れ日記」にトラックバック」「雪の日中線記念館」の4点をお届けします。

今年の山形は豪雪でしたので、雪景色を見ていると懐かしくなります。



2005.01.11

新年にあたりまして─上杉鷹山公の精神

新年明けましておめでとうございます。

旧年中は当店をご利用頂きまして、また「土屋薬局 中国漢方通信」ならびに、
この「ココログ版」をご覧頂きましてありがとうございました。

スタッフ一同「酉年」に負けぬよう、更なる飛翔を成し遂げていきたいと思っております。

本年もどうぞよろしくお願い致します。

(年始から相談業務が多忙でしたので、ご挨拶が遅れてしまいました。申し訳ございません)


1月10撮影。山形県米沢市の上杉神社。

藩祖上杉謙信公を祭った神社として全国的に有名です。

昨年の12月の暖冬とはうって変わっての豪雪となっています。


上杉鷹山公です。

雪に覆われて、まるで白い帽子を被っているかのようです。

「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成さぬはひとの なさぬなるけり」

鷹山公の有名な格言です。

危機的な財政状況に陥った米沢藩を立て直したことで世界的にも知られています。

鷹山公は自ら率先して、統治者である自分の絹の着物を木綿の着物にしたり、
豪華で有名だった殿様の食事を「一汁一菜」にし、
倹約に努めていきました。

女中も三分の一くらいの「少数精鋭」にし、
家中の反対を押し切って、
藩全体の舵をとっていったのです。

つまり120万石で豊かだった時代から、
当時15万石にまでに減らされたことへの
意識を変えることから始めたのです。

実質15万石の経済状態だったのに、
50万石ほどで藩士を養っていたので「火の車」であったのは当然のこととも言えます。

また鷹山公は 倹約ばかりの「リストラ策」だけでは、
ジリ貧になっていき 民は疲弊するだけですので、
米沢の地域性を生かした産業─地場産業の育成にも勤めました。

米沢で取れる麻糸や漆、桑、紅花などを加工して、
製品に変える技術を育成していきました。

つまり付加価値を上げ、「米沢藩」の「オンリーワンブランド」を養成していったのです。

女中たちは「米沢織」を織ったり、
農家の人たちは副業で「笹の一刀彫り」を作りました。

今の21世紀の米沢にも残っているものは、
鷹山公によるものが大きいと言えます。


私たちも「なせば成る」のチャレンジ精神で今年一年間がんばります。

今年もどうぞよろしくお願い致します。

(「アフロな鷹山公」というスタッフの感想も載せておきます。。)





2005.01.21

白布の野猿

1月の成人式の連休のときに、白布温泉の西屋に宿泊していました。

白布温泉からは米沢の小野川温泉は車で約15分くらいと
比較的近くに位置する温泉です。

西屋さんのお湯ばかりに入っていると飽きてきますので、
小野川温泉のお湯でももらいに行こうかと考えて、
吹雪の悪天候ではありましたが移動することにしました。

さて、その道中で出会った野猿たちを紹介しましょう。

ちょうど白布の山から平地に降りて、
あと数キロで小野川に着くところの道路の片側は、
山の斜面となっています。

そこに餌を探しにきている野猿たちを見かけたのです。

通り行きかう車たちは、野猿は珍しくないのか
私以外の車は一台もハザードを出して停車しませんでした。

この寒さの中をさ猿たちは、必死に餌を探しているようでした。

ちょうど木の実が豊富にあったようで、
5〜6匹の猿たちは群れをなして食事をしています。

私の家は東根市にありますので、仙台に行くときには48号線を通ります。

関山近くの山でも親子連れの野猿たちを車から見かけて、
ビックリしながら運転していたことを思い出しました。

最近、ニュースで下北半島の野猿たちが捕獲されるとありましたが、
この猿たちもあまり人里に降りて、たとえば小野川温泉街に出現したら
大騒ぎになるんだろうな、、と考え、山に豊富に食料があることを願いました。

2005年1月10日撮影 白布温泉から小野川温泉に向かう道中で 「白布の野猿」




2005.01.22

「やまけんの出張食い倒れ日記」にトラックバック

やまけんの出張食い倒れ日記」の「山形・白鷹町に「まあどんな会を訪ねに行った!」シリーズが面白いです。

私たち山形県民が普通に食べている食事が、やまけんさんにとても好評でして
地元民の私も読んでいて嬉しいです。

「ヤーコン」の漬物もおいしいんですよね。
(「友香ちゃん巻き巻きヤーコン」もご覧になってくださいね)
ああ、それにしても「まあどんな漬け」のおいそうなこと。

最近は私も遅咲きながら「山形蕎麦」に目覚めました。

山形市や天童市、大石田、東根、鶴岡、肘折など
いろいろと食べ歩いていますが、
山形の蕎麦はどの店もアベレージが高く素晴らしいと思います。

値段も庶民的で手ごろなのが嬉しいです。

私の知り合いの東北在住の温泉仲間でも、
「山形蕎麦」は大人気なんですよ。

やまけんさんには「おいしい山形」大使として今後ともがんばって頂きたいです。

今回は応援のエールを込めて「やまけんさん」のところにトラックバックします。

山形蕎麦の名店 梅蕎麦さんの「二色せいろ」と「十割そば」です。
二色は、秋の時期に撮影していますので、黄色いほうは菊です。
十割のほうは、「こんなに細いの?」とビックリされるかたもいらっしゃるかもしれません。


雪の日中線記念館

1月の成人式の連休は、白布の西屋に連泊しました。

白布(しらぶ)は、山形県米沢から西吾妻スカイバレーに向かうところに位置します。

おりしも昨年とはうって変わっての本格的な冬となりましたので、
すっぽりと雪に埋もれた感覚を過ごしてきました。

さて、その帰りに日中線記念館の列車たちはどうしているかが気になりまして、
米沢から一路喜多方を目指しました。

日中線記念館熱塩駅構内には、いまも往時をしのばせる
ラッセル車キ100とオハフ61が保存されています。

私が愛する無明舎出版の「とうほく廃線紀行」という名著がありますので、
「日中線」を紹介させて頂きます。(無明舎さんありがとうございます)

「日中線」……「とうほく廃線紀行」106ページより 

‥東北中央縦貫鉄道の夢‥

朝は日の出が遅く夕方は日の入りが早く、
昼間しか太陽が拝めない山間の集落であることから「日中」の地名が付いたともいわれ、
米沢を朝出発して大峠を越えてちょうど昼ごろ到着するので「日中」とも呼ばれていたともいう。

明治25年(1982)頃、下野の国と岩代の国と羽前の国とを鉄道で結ぼうという
東北中央縦貫鉄道・野岩羽線の建設運動が始まった。

栃木県今市から福島県会津若松や喜多方を得て山形県の米沢に至る構想で、
日中線はその一環として昭和13年(1938)8月に実現した区間だったのである。

喜多方発6時、9時、13時、16時、18時の5往復で、所要時間約30分。


現在、山形県南の置賜地方(米沢市など)と福島県会津地方とを結ぶ主要交通ルートは
険しい山塊を大峠トンネル(全長約4km)などでぶち抜いた国道121号があるだけだが、
「もし日中線が熱塩からさらに延長されて米沢まで通じいたら…」と
米沢在住に筆者などはフッと想像してしまう。

「山形県と福島県の昭和史の風景は相当違ったものになっていたのではないか。
奥羽本線のように、今も存続できていたのではないか」と。

大正11年(1922)4月には米沢─喜多方間が予定線に決定したが、
太平洋戦争で頓挫。

戦後も粘り強く運動が続けられたものの、
社会情勢や交通体系の変化で住民の願いは実らず終わる。

ともあれ日中線の開業によって喜多方─熱塩地方から
首都圏や酒の販路が開かれ、米も搬出された。

学校生徒や住民も「ウチの電車」として親しみ利用した。

熱塩行き止まりのローカル支線で終わり、赤字を積み重ねた日中線は、
合理化により喜多方発4時、6時、18時の3往復となって
「日中は走らない日中線」と呼ばれ、結局は「日中」地区を通ることなく昭和59年に廃止。

しかし沿線には住民の愛惜の念を窺わせる跡が残り、訪れる鉄道ファンも少なくない。

───

以上、無明舎出版「とうほく廃線紀行」(「日中線」は、
伊藤孝博さんの執筆です)より紹介させて頂きました。


雪の中、ラッセル車キ100とオハフ61が静かに眠っています。

今にも走り出しそうです。


キ100の側面には「熱塩駅常備」の文字です。

雪国会津を支えていたラッセル車の魂を感じます。

ラッセル車キ100は、かつての冬の活躍を夢見て静かに眠りについています。

(2005年1月11日撮影。撮影者 土屋幸太郎。「日中線記念館」において)

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