雪は天から送られた手紙である 

01/01/11



初めは慰み半分に手をつけ見た雪の研究も、段々と深入りして、
算(かぞ)えて見れば もう十勝岳(とかちだけ)へは五回も出かけて行ったことになる。


落ち着く場所は道庁のヒュッテ白銀(はくぎん)荘というl小屋で、泥流コース近く、
吹上(ふきあげ)温泉からは 五丁(ちょう)と 距(へだ)たっていない所である。


此処(ここ)は丁度 十勝岳の中腹、
森林地帯をそろそろ抜けようとするあたりであって、
標高にして千六十米(メートル)位は ある所である。



雪の研究といっても、今までは主として顕微鏡写真を撮ることが仕事であって、
そのためには、顕微鏡は勿論(もちろん)のこと、
その写真装置から、現像用具一式、簡単な気象観測装置、
それに携帯用の暗室など かなりの荷物を運ぶ必要があった。


その外(ほか)に 一行の食料品から お八つの準備まで
大体一回の滞在期間 約十日分を持って行かねばならぬので、
その方の準備もまた相当な騒ぎである。


全部で百貫位のこれらの荷物を 三、四台の馬橇(ばそり)ののせて
五時間の雪道を揺られながら、
白銀荘へ着くのは いつも日が とっぷり暮れてしまってからである。


この雪の行程が一番の難関で、小屋へ着いてさえしまえば、
もう すっかり馴染(なじ)みになっている番人のO老人夫妻がすっかり心得ていて
何かと世話を焼いてくれるので、
急に田舎の親類の家でも着いたような気になるのである。 (昭和十年十二月一日)

(中谷宇吉郎随筆集 「雪の十勝(とかち) ―雪の研究の生活―」 岩波文庫より)






昭和十年、 西暦 1935年から、ついに 2001年になった。

ここは、21世紀、未来の世界。

舞台は、山形県東根市だ。

年末から、未曾有の豪雪が連日連夜 続いたのだった。

私の祖母が曰く。

「60年ぶりの大雪だよ。」

だそうだ。

そうすると、 祖母は まだ20代の頃になる。

「ばあちゃん、覚えてる? 記憶はある?」

「忘っすたは。 あの頃は、雪 多いっけもんな」






土屋薬局 駐車場で 01/01/9に撮影。

年末年始と大雪が続きました。

降っては止み、降っては晴れるペースだと
雪を片付けることができるのですが、
5〜6日間も降り続くと
もう お手上げです。

当駐車場は面積が広いために、
人力で 雪掃きをすることは
物理的に不可能です。

ですから、毎年 除雪車を頼んで来てもらい、
雪を隅の方まで持っていってもらいます。

ところが、豪雪が 連日連夜 続きますと、
上記のような 巨大な 雪山が出来上がってしまいます。

この雪山の所有する面積は、
ざっと見積もって
乗用車 4台分。


私も、雪の十勝岳のような
ヒュッテ白銀荘に住み、雪と親みたいのですが、
生活の場で このような有様だと
雪が嫌いになってしまいます。






スニーカーで 格好をつけては駄目です。

雪で グチャグチャになります。

素手では、駄目です。

しもやけになります。




スコップ、スノーダンプは必需品。

雪山を崩すときは、スコップ。
まとめて 雪片付けをするときは、スノーダンプと
それぞれ 用途に応じて 使い分けます。


都会や 雪のない 暖かい地方の方には、
なかなか実感できないと思いますが、
私たちは このように 冬は雪と格闘しています。

病院やスーパー、コンビニなどの駐車場がある施設や
一般家庭、果樹畑など
この作業により
大いなる労働を要されるのです。

この時期、ニュースでは

「屋根の雪下ろしをしているときに、誤って 転落して 腰の骨を折る重傷。」

「山形新幹線が米沢周辺で倒木のため、終日 運休」

「国道13号線 新庄付近でスリップ事故のため、半日渋滞」

など、悲しい内容が多くなります。





雪はさすがに実によく降る。

冬中 何時(いつ)行って見ても、
大抵毎日少しも降らないという日は滅多にない。

朝起きると一面の青空で、
朝日が白銀の世界を茜(あかね)色に染めているような日でも、
夕方になると大抵は見事な樹枝状の結晶が細雨(さいう)のように音もなく降って来る。

このような時は 大抵写真を撮るには最適な条件のことが多く、
つい遅くまでも ひきずられがちとなるのである。



朝 目を覚まして青空が見えるような日には、
一同 大変な元気で早くから起き出してしまう。

そして急にパンを切ったり、スキーに蝋(ろう)を塗ったりして 山登りの順位にかかる。

何時の間(ま)にか、
天気がよくて雪の降らぬ日は ふりこ沢のあたりまでスキーに乗って、
積雪上の波型を見に出かけることに決(きま)ってしまったのである。

そして特に晴れた日には
そのまま十勝も頂上まで行程を伸ばしてしまうのである。

それを楽しみにして 特に助手を志願して出る学生も出て来て、
大抵いつも十勝行(ゆき)に人手が足らなくて困るということはない。



O老人もよく一緒に行くことが多い。

かんじきを穿(は)かしたら 誰もこの老人に敵(かな)うものはいないが、
スキーはまだ始めて二年にしかならぬというので、
丁度良い同伴者なのである。

この老人は全く一生を雪の山の中で暮らして来たという
実に不思議な経歴の人である。

この人の話などを聞いていると、
雪の山で遭難するというようなことは あり得ないという気がするのである。

一昨年の冬にも犬の皮一枚と猟銃と塩一升(いっしょう)だけを身につけて、
十二月から翌年の二月一杯にかけて、
この十勝の連峯(れんぽう)から日高山脈にかけた雪嶺(せつれい)の中を
一人で歩き回って来たというのである。

この老人の話をきくと 
零下二十度の雪の中で二ヶ月も寝ることが何でもないことのようなのである。

もっともその詳しい話を聞き出して見て驚いたのであるが、
この老人は われわれのちょっと及ばぬような練達の科学者なのである。



雪の中で寝るのに一番大切なことは 焚火(たきび)をすることであるそうである。

それは極めてもっともな話であるが、
厳冬の雪の山で焚火をするのは 決して容易な業(わざ)ではない。

ところが この老人は三段のスロープの蔭(かげ)に自分たちを連れて行って、
何の雑作(ぞうさ)もなく 雪の上で大きい焚火をして
われわれを暖めて見せてくれるのであった。

風の当たらぬ所を選んでこれだけの焚火があったら、
なるほど雪の中で寝ることも 事実普通の生理学と少しも矛盾しないのである。

鋸(のこぎり)と手斧(ちょうな)とマッチが食料品と同様に
雪の山では必需品であることを 実例で教えてくれたのは この老人であった。


中略


今年も初霰(はつあられ)のたばしる音を聞くと、
十勝の生活とこの老人のことが思い出される。

結晶の研究にもまだ抜けたところ沢山ある。

特に粉雪の結晶構造の研究には まだ一冬はどうしてもかかる。

その外(ほか)にも 昨年の冬から初めて手を付けて見た
スキー滑走の物理学の完成にも十勝は最も良い聖場の一つである。


まだまだ数年は十勝へ通わねばなるまい。

クリスマスの木のような
あの十勝の樹(き)たちに会うことも、
この老人からストーブの周りで
「カムチャツカへ歩いて行った話」
を聞くことも皆 楽しみの種である。 (昭和十年十二月一日)


(中谷宇吉郎随筆集 「雪の十勝(とかち) ―雪の研究の生活―」 岩波文庫より)









01/01/10撮影。

ついに 山形県の大型除雪車登場。

たまに除雪車に巻き込まれて
死亡してしまう痛ましい事故がありますが、
確かに これは凄いですから
もし 雪国で見かけたときには用心してください。





もう一台、やってきました。

この除雪車は、雪を吸い上げて
外に送り飛ばすという 優れもの。

前方 上方に吐き出し口が見えます。
そこから、雪を吐き出します。





緑色の巨大な除雪車が 道路や道端に溜まった雪を
きちんと削り取り、整頓していきます。

それだけだと、今度は 「雪の捨て場」 がありませんので、
オレンジ色の雪を吸い込み、吐き出す除雪車の登場になります。

オレンジ色の除雪車は 雪を吹き出すだけですから、
前方に 大型トラックを用意させ
お互いに 微妙な距離を置きながら
雪を片付けていくのです。





つまり、三台の共同作業となります。

その他に、事故がないように
歩行者や車を誘導する ガードマンの人たちも つきます。

ちなみに、雪を受け止めている大型トラックの運転手さんは
可愛い 女性の人でした。





雪は人間の生活をおびやかすばかりではない。

年毎に激増していくスキーを楽しむ人、
冬山へ登る人、
更に 幾度か犠牲を払うことににも屈せず、ヒマラヤに挑戦している西欧の登山家たち、
このいずれもの人々が いわば雪と闘い、雪を楽しみ、雪の魅力に引きずられているのであるが、
雪の研究を根本的に進めようとする人間の努力の方は
これに比べて遥かに微弱であることは 争えない。


毎年 何百万の人間が豪雪に苦しめられて憂鬱な生活をしている。

雪のために 毎年一億万円を超える損害を受けている。

こういう事実に対して 少数の人々は 
何とかしなければいけないということを真剣に考えているのである。



しかし一方では、毎年 冬になると何十万という人々が、
スキーを楽しむために雪原へ雪の山へ出かてゆく。

これらの人々が雪に親しみ、健康と剛健な気風とを養うことは
勿論 大いに賛成すべきことではあるが、
このように雪に親しむ気持ちを今一歩進めて、
雪の性質なり、
雪の降る状態なりに注意し、
そして 雪から蒙る損害をいくらかでも少なくしようということに心を向け、


また 同時に雪を楽しむようにしたら、
どんなに良かろうという気もする。


雪の性質が本当に研究し尽くされた時、
雪は現在のように恐ろしいものとして、
われわれに迫らなくなるであろう。


これは決して夢のような話ではない。


人間はもっと困難な多くの自然現象とたたかい、
それを研究して、
征服しつつあるのに、
雪についてまだ多くの研究がされないのは何故であろうか。


少数の学者の研究が如何(いか)に進んでも、
その研究が一般の人に普及されければ その真価を発揮したことにはならぬ。


また研究というのものは多くの人に諒解され、
利用されて、
人々の注意が集まって 更に新しい段階に入ることが出来るのである。


今日我国において最も緊急なことは、
何事をするにも、
正しい科学的精神と態度とをもって為すことが必要であるということであろう。

これは何回繰返して言っても過ぎることはないであろうと思われる。


(「雪」 第一 雪と人生より 中谷宇吉郎署 岩波文庫)









昨年の年末に 沼津の小島さんから
北京研修旅行の写真を入れた 封筒が届きました。

「雪は天から送られた手紙である」

敬愛する 中谷宇吉郎先生が 郵便切手になっていたんなんて、
夢にも思いませんでした。

この偶然にも喜ぶと同時に

「これは沼津から送られた手紙である」
と洒落を思いつき、
暖かい気持ちになりました。


中谷宇吉郎先生、
21世紀は 当時よりも雪は大分 少なくなりましたが、
まだまだ 私たちは苦労しています。

先生の精神を見習い、
何事も 真摯に自然現象から学び、
感動や畏敬の気持ちをもって 生きていきたいです。


先生は、科学者が研究することは
日常生活に役立たなければならない と指摘していますが
立場は違えど、
私の職務にもいえると思います。


これからは、愚痴をこぼさず、
雪と親しみ、雪と上手に付き合っていきます。