ちょっと止まって夢を見た

バスを待ちながら

02/07/09


キューバのとある町のバス待合所には、
来るあてのない バスを待ち続ける人々がいた。

はじめはバラバラだった彼らの心が、
やがて 一つの“しあわせ”でつながっていく。

爽やかな笑いと音楽にのせて、
あたたかい感動を呼び起こす 珠玉の名作。


自分の暮らしを貧しいと嘆くか、あるいは それほど苦にしてはいないかで、
その人の貧しさが決まるのだと思う。

なかなか来ない長距離バスを、大勢の乗客たちが ひと晩もふた晩も
待ち続けるという恐るべき事態を、
この映画の作者は 「まあ そういうこともあるさ」と笑いとばしながら、
さまざまな人間ドラマを 手並み鮮やかに描き出す。

自分の国を よほど愛していなければ こんな愉快な映画は作れないだろう。

まさしく キューバならではの喜劇なのである。


山田洋次(映画監督)

キューバのとある田舎の海に近い バス待合所は、
いつ来るかもわからないバスを 何日も待つ人々で 繰り返っていた。


たまにやって来るバスは いつも満席で、
たった一つ残された希望である 壊れたバスの修理にも失敗し、
遂にバス停は閉鎖されてしまう。


その時、若い技師エミリオが もう一度バスを修理しようと提案し、
みんなは留まることになるが、それぞれ事情を抱え勝手なことを言い合うだけで、
時間ばかりが過ぎていく。


しかし次第に 彼らは助け合うようになり、
やがて自分の物語を語り、心の交流が始まり、
奇妙な連帯感が生まれてくる。


そして彼らの心は 一つの“しあわせ”でつながっていくが・・・・。






いつの世の中でも バス停には、
それぞれの物語を胸に抱えた人々が 集まって来る。


そして キューバ名物とも言える “行列”をモチーフに、
さまざま人種が混在する キューバならではの 物語が描き出すのは、
どの国の どの人種にも共通する “人と人のつながり”という普遍的でありながら、
今、現実社会では 最も希薄になりつつあるテーマだ。


キューバ庶民の素顔と日常生活、
そして彼らが置かれた 厳しい社会社会状況を、
爽やかな笑いと音楽にのせて 丁寧に描きながら、
心のユートピアを ファンタジアに提示して、
胸にしみ入るような あたたかい感動を呼び起こす。


観る人すべてに、日常生活の合間に 忘れてしまいがちな
“本当のしあわせ”や“生きる希望”を
思い出させてくれる 珠玉の名作だ。




(「バスを待ちながら」のパンフレットより、引用しました。シネカノンさま、ありがとうございます。)





映画の宣伝チラシより…左上にエミリオと抱き合っているジャクリーン可愛いでしょう!



キューバの田舎町にあるバス停が 舞台の映画です。


バス停といっても 屋根付きのターミナルに近い建物なんですね。


主役であるエンジニアのエミリオが、人々で混雑しているバス待合所に
やってきます。


エミリオは 「列の最後は、誰?」と 行列の最後の人を 探し始めます。


また、ちょうどそこに、ジャクリーンという美しく、キュートで、グラマー!な
若いヒロインも訪れます。


ジャクリーンも、「列の最後は、誰!」と叫びますから、
エミリオと どちらが先に並べるかで、
お互いに 口論が始まるところが 二人の出会いとなる訳です。







キューバの交通事情は、恐ろしく不便だ。


1日中 待っていて バスがやって来るのに、
最初からバスは満員ですから 
このバス停留所では、一人しかバスに乗れそうにありません。


自称 盲人の障害者を装っているロランドや
死にそうな持病があると告げる おばあちゃんなど、
一癖もふた癖もある人たちです。


「自分が一番最初よ!」とバスの乗客たちが 言い争っているうちに、
バスは みかねて 一人も乗車させずに発車してしまいました。


乗客たちは殺気だち、
バス停の所長である フェルナンデスに詰め寄ります。


一人困惑するフェルナンデス。


ちょうど、バス停留所には、壊れたバスが一台だけありました。


所長のフェルナンデスは、責任をもって このバスを直してから、
出発させると言います。


その貴重なバスの行き先でさえも、
自分勝手な乗客たちは
「ハバナ!!」 「サンティアゴ!!!」と
お互い 正反対の方向の場所にある街を希望します。


結局、奇数日は 「ハバナ」で、偶数日は 「サンティアゴ」と決まりました。


さて、所長のフェルナンデスが やっとの思いで 修理を終え、
「ハバナ」へ向かって出発しようとした 
ちょうどそのときに、
バスは運悪く故障してしまったのです。


あきらめる乗客たち。


フェルナンデスは、バスの修理は不可能だから、
バス停を閉鎖することを全員に告げます。


いつしか、あきらめのムードが漂い始め、
一人また一人とバス停から、立ち去ろうとする人が増えます。


そのとき、エミリオが

「みんな、帰るのを待ってみて!」

「もう一度みんなでバスを修理しよう!」と提案します。


帰ろうとしていた乗客たちも、エミリオの発言に勇気づけられ
また舞い戻ってきました。


夜を徹して、修理をする男たち。


自称 盲人のロランドが、エンジンの故障ではなくて、
燃料ポンプのピンが折れていることが原因だと 突き止めます。


男たちがバスと格闘していたとき、
女たちは ベンチに毛布を敷いたり、トイレの順番を決めたりと
裏方に徹します。


みんな、なんだか さっきまでの不平不満がいっぱいで
互いに 言い争っていた人たちとは まるで別人のようです。


さあ、夜は更け、今夜はもう遅いですから、
ぐっすりと眠ることにしましょう。




「バスを待ちながら」のパンフレットです。シネカノンさま、ありがとうございます。



朝がやってきました。


南国の日差しが落ちます。


バス停留所は、海辺に立っていますから、
いっそう朝の景色が引き立ちます。


バスの燃料ポンプのピンを 草むらで探す乗客たち。


食べるものがありませんので、みんながお腹ペコペコです。


魚釣りを試みる男もいましたが、
所長のフェルナンデスに ここでは魚が釣れないことを告げられ
がっくりと肩を落としました。


ちょうどその時、子供たちが バッグに入ったロブスターを見つけてきたのです。


さあ!! “バス・ターミナル風”ロブスター料理の始まりです。


わいわい、がやがや。


みんな一つの家族だ。


食事の後には、フェルナンデスの好意から、
キューバ音楽が流れ、ダンスパーティとなりました。


バスに乗れず、もう3日間以上
バスを延々と待っているのに、みんなの笑顔は晴れやかです。


老いも若きも、楽しさがいっぱいです。


やがてスコールが落ちてきました。


裸になって子供のようにはしゃぐ男たち。


エミリオとジャクリーンも、オンボロ車で結ばれ、
永遠の愛を誓います。




パンフの中より。写真家 飯田かずなさまの製作です。キューバに一度、行ってみたいですね。


映画のストーリーは、まだまだ続き、
夢のような日々が過ぎていきます。


さて、私は この「バスを待ちながら」を観て、
感銘を受けたことがあります。


キューバの海です。


バス停留所からは、いつも海が見えます。


50年代のアメ車のタクシーが停留所で 乗客を待っています。


その向こうに視線をうつすと、きれいな青空と海が 遥か前方に広がっていきます。


映画の後半では、乗客の一人が 病に倒れて死んでしまう場面があります。


一つの家族となったみんなで、遺言通りに
停留所の土地に埋めます。


葬式をして、悲しみを堪えていきます。


BGMは、なにもありません。


ただ、キューバの海と青空が広がり、
静かな 海の音が、潮騒が、聞えてくるだけです。


私は、山形の盆地に生まれ育ち、
いつも山を見て 生活していますから、
海辺の風景には、強い憧れがあります。


将来は、海の見える家に住みたいなあ。


灯台があると、もっと最高だなあ。





「バスを待ちながら」では、扉がいつも開いている環境ですが、
みんな逃げ出しません。


バス停留所だけの撮影だけですから、
基本的に この映画では 場面の移動はありません。


つまり、演劇の 「舞台」のような環境で、
「バスを待ちながら」が作られているわけです。


扉は開いているけれども、誰も帰らない。


バスも来なくて、永遠に移動できないかもしれない。


ところが 最後には
ここで生活を一生送りたくなるような、
また他人同士だけども 家族の絆で結ばれるユートピアのように
バス停留所が生まれ変わっていきます。


人との触れ合い、協力、やさしさ、助け合い、愛情、思いやり。。


孤独とは無縁な世界が、広がっているのです。


扉は開いているけれども、誰も逃げ出さない。


それもきっと、キューバの青い海と空も 関係しているのでしょう。







2001年8月5日撮影
場所:庄内浜


昨年、海にキャンプに行ったときに撮影した一枚です。

キューバの海とは違いますが、
「真夏の日本海」も憧れます。

水平線が遠くに見え、
地球が丸かったことを知ります。





海辺に咲く 白いパラソル

潮騒が聴こえてきます。

僕の心の中で、
海に 永遠を感じます。