北京便り 北京到着編

追憶の北京

00/12/07



私は11月23日に成田を出発して、27日に帰国しました。

この 「北京便り」では、
2年ぶりとなる北京での北京中医医院研修や観光の模様を紹介していきます。





今回で6回目の訪中。

どの訪中も思い出深いものがあるが、
一番印象に残っているのは、1991年に初めて行った北京。

1989年の天安門事件から、2年後の世界。

とても怖いイメージ。初めての共産圏。

当時、ソビエト連邦も健在で、私たち西側とは違う 遠い世界。

北京空港に到着すると、それは古くて、汚い建物。

山形空港の方が、きれいではないか。

北京空港から表に出て、街中を目指す。

まだ 空港からは高速道路が通っていなかった。

柳が揺れる。 そよ風が吹く爽やかな季節。

バスの脇を、牛が歩き。

農民は牛車に載って、仕事の最中だ。

30分間以上、時間をかけて、北京にやっと到着する。

北京の街を歩くと、そこかしこで、赤い旗が揺らぎ、スローガンが掲げてある。

私には中国語が読めないので、よく分からないが、同伴者に聞くと、
「共産党万歳」とか、「思想教育」 に関するものらしい。

古い街中では、土壁の家やレンガの壁があり、そんなところにも黒板がある。

そこにも、「中国共産党」のスローガンやポリシーのようなものが書かれていた。

王府井(ワンフーチン)から、天安門広場まで歩く。

天安門広場は、抜けるような10月の青空が広がっていたが、
足元をよく見ると、銃弾の痕が残っている。

彼はどうなったんだろう。

その写真は、覚えている方も多いと思うが、
戦車に向かって立ち尽くす青年だ。

当時の私には、衝撃的だった。

国家権力に立ち尽くす 一人の男。

崔健(ツイ・ジエン)は、戦車に立ち向かわなかったが、
彼は ロックを武器に 命をかけた。

当時の中国でロックをすることは、反体制とみなされた。

街中のレコード屋で、崔健(ツイ・ジエン)のテープやレコードを買おうと思ったが、
どこも販売していなかった。

今回の訪中では、王府飯店という外資系のホテルに宿泊したが、
部屋の外国人向けの中国ガイドには、
中国で もっとも成功し、有名なアーチストとして、
彼が紹介されていた。

週末には、ロックライブを開いて、相当 人気を博しているらしい。

今は昔。

天安門事件のことを、現地で親しくなった中国人通訳に聞いてみた。

「天安門事件ですか」

「日本では、天安門事件と呼びますが、こちらでは名称が違います」

「反体制革命事件と政府が言っています」

共産党は、学生たちの行動を恐れた。

かつて、中国共産党が誕生したときには、
若い 毛沢東や周恩来たちは、
学生の若い力を結集させた。

国民党軍と内戦にはなったが、日中戦争に勝利した後は、
列強からの支配を逃れ、中国を統一できた。

1949年10月1日。

「中国人民は立ち上がった。
何人も二度と我々を侮辱することはできない」

かつての紫禁城の表門に立った毛沢東は、中華人民共和国の建国を高らかに宣言したのだ。

共産党幹部や政府高官は、その時代の若者の熱気や情熱が思い出されたのであろう。

1991年、いや今でもそうかもしれないが、
中国人は政治的な発言を個人的にするのは嫌う人の方が多いだろう。

私にそのことを話してくれた通訳は、
日本語だから このような話ができると言っていた。

中国の現状に対する不満を述べる通訳に
私たち日本人は、驚き、そして励ましに変わったのだ。

彼も元気だろうか。




という訳で、文章を進めていたら、回想モードに入ってしまいました。

帰国後に、皆様にお読み頂くのだから、もっときれいな読みやすい文章にしようと考え、
「うまい!と言われる。 文章の技術」 朝日新聞論説委員 轡田隆司 三笠書房 
を読み、「ですます」口調から、「である」口調に代えてみました。

感動を伝える文章を書きたい。

何かを伝えたい。

自分を知ってもらいたい。

これがホームページを作成している理由でしょうか。

では、次号予告。



久しぶりに国際線に乗ると、
思わずスチュワーデスさんの機内の説明に
耳を傾けるものです。

ANAハローツアーもなかなかお勧めですよ。