漢方の源流に迫る 鑑真和上を偲びながら

01/04/30



みなさまは、漢方というと何を思い浮かべますか?


人により、受け止めるイメージは違うと思いますが、一般的には
「天然の生薬などの薬剤を中心とした 体に穏やかに効き目のあるもの」などを想像されることでしょう。

「西洋医学の治療で限界のあるときに、漢方で体質改善を図る」
また 「副作用が少ない」 などという印象もあるでしょう。


さて、この 「漢方」という言葉ですが、実は 日本だけの固有名称なのです。


江戸時代―徳川時代の医学の主流は、漢方医学でしたので、
西洋の医学―オランダ医学は あくまで傍流(ぼうりゅう)にすぎませんでした。

そのため、当時は、医学といえば 漢方医学を指しましたので、
新しく伝来したオランダ医学を 蘭方(らんぽう)と呼んで、在来の伝統医学である漢方と区別していたのです。

「漢方」という名称が一般に用いられるようになったのは、明治以降、漢方が衰亡して、
西洋伝来の医学が医学界の主流となってからです。


そのため、通常は 中国に行って 「漢方!」「漢方!!」と お土産屋や薬屋さんで叫んでも、意味が通じません。


漢方の本場 中国では、「漢方」は、「中医学」または「中国伝統医学」 「祖国医学」などと言います。


(しかし、実際には 「漢方」は、意味が通って 簡単に買い物できますので、ご安心ください。

また、「土屋薬局 中国漢方通信」もそうですが、「中医学」の言葉を 日本国内で分かりやすく説明するために、
便宜上 私たちは 「中国漢方」という言葉を使用しています)





もう少し、漢方における 日本と中国の関係について述べていきます。


ここからは、土屋薬局 中国漢方通信では、
お馴染みの 「漢方と民間薬百科」 大塚敬節先生著 主婦の友社(昭和41年発行)から 引用させて頂きます。
(ありがとうございます)





漢方医学の成り立ちと流れ(漢方編 321ページより)


漢方医学は古来の中国に源があり、漢方には漢方医学としての体系ができあがり、
そのころ すでに漢方医学最古の古典である 「黄帝内経(こうていだいけい)」が偏さんさられた。


次いで漢末から三国時代にかけて、「傷寒論(しょうかんろん)」という書物ができた。


いまから 1700年ほど前のことである。



この「傷寒論」は、漢方薬で病気を治療する際の治療の法則を、具体例をあげて述べた大切な古典で、
著者は 張仲景(ちょうちゅうけい)という人だとされているが、この人の事跡は あまりはっきりしていない。



漢方医学は、はじめ朝鮮半島を通って、わが国に伝えられたが、
推古朝になって、僧侶が直接、中国に留学して 隋(ずい)の医学を学び、
奈良時代には、遣唐使(けんとうし)の往来がはげしくなるにつれて、
唐(とう)の医学が続々と伝来し、
この傾向は平安時代になっても つづいた。


しかし、このころに、中国から伝えられた医学は、一部貴族階級の占有物であって、
一般大衆の治療は、日本在来の民間薬や加持祈祷(かじきとう)にたよるほかは なかった。


また、このころの医学が隋唐医学の模倣(もほう)に終始していたことは、
平安時代を代表する 「医心方(いしんほう)」という医書を見れば わかる。


この 「医心方」は、現在のわが国の医書としては、最古のもので、
永観二年(西暦984年。以後すべて西暦による)に、丹波康頼によって編さんせられた。



奈良時代に どのような薬が用いられていたかは、奈良の正倉院に秘蔵されている六十種の薬によって、知ることができる。


この正倉院の薬物は、天平勝宝八年(756年)に、孝謙天皇、光明天皇、光明皇太后が
聖武天皇崩御の七七ご忌辰(きしん)にあたって、
東大寺盧舎那仏(るしゃなぶつ)に納められたものであるが、
その当時にあっては、これらの薬物は、非常に貴重な舶来品であったのであろう。



また、孝謙天皇の天平勝宝六年(754年)には、鑑真和上(がんじんわじょう)がはるばると唐から来朝した。


鑑真は、名僧であったが、医術にも精通し、日本に渡来する途中に失明したが、
薬物の真偽を鑑別するに妙を得、皇太后のご病気の際に、薬を献じて効験があり、大僧正の位を授けられた。


奈良の唐招提寺(とうしょうだいじ)は鑑真の開山で、昭和三十八年は、鑑真の死後1200年になるので、
日本でも中国でも盛大な法要がいとなまれた。


以下略。




私は、東京都美術館で開かれた 「国宝 鑑真和上展」を見に行きました。


鑑真和上は、1247年前に、命をかけて 荒れ狂う海を渡ってきました。

「東征伝絵巻」には、大海に乗り出した舟が幾度となく 難破する様子が描かれ、
鑑真和上の苦労を 偲ぶことができます。


苦節十二年、日本への渡航に挑戦すること五度と、
鑑真和上は 失明など 辛酸を嘗め尽くし、命をかけて 仏教や医学を伝えました。


鑑真和上像は、まるで 生きているかのような 静かな微笑をたたえていました。


薄明かりに、座禅を組み、瞑想する姿は、
鑑真和上の生前に 死が迫ることを知った弟子たちが彫刻したとされています。


私は 鑑真和上像に、その慈悲深さと 仏教に生きた人生の尊さを感じました。


漢方医学を学び、実践するにしても、
鑑真和上や弟子たちが、命を賭けて 中国から日本に伝えたことは、忘れてはいけないことでしょう。





そのような分けで、私も 漢方の源流を探索するために
毎年 中国に行って 勉強しているのですが、
次号からは 北京中医医院での研修の模様を伝えていきたいと思います。

日本と中国は、やはり縁が深いですね。


2001年11月24日4時55分撮影です。
外来は終了し、家路に向かう人々。