北京便り 追憶の北京1991年

00/12/12

僕が初めて中国に行った時代



前回は、「人民元」 と 「兌換券(だかんけん)」 の2種類の貨幣が流通していたころの話でした。

今回のテーマは、1991年に初めて中国に行った時代を特集します。




私が初めて、北京に行ったのは1991年。

星薬科大学を卒業したばかりの22歳。

友人たちはメーカーや病院に就職したり、大学院に進級していた。

当時は、バブルの絶頂期の2年目だった。

1階級上の先輩たちの時代の方が就職が楽だったようだ。

あの頃は、「ジュリアナ」 「芝浦」 「お立ち台」 「F1 中嶋参戦」 「土地の値上がり」 
「東京ラブストーリー」など、世の中が元気が良かった。



そのような時代背景を写して、就職戦線も 「売り手市場」で、みな簡単に就職できた。

まず メーカーの営業なら 2週間くらいの就職活動で笑いながら、決定。

友人で学部生なのに 「武田」に就職できた奴もいた。

もっとも、バブルの時代でも、女子学生は大変な人が多かった。

夏まで もつれ込んで、ようやく就職できて安堵の表情を浮かべる子もいたし、
田舎から上京している子は 田舎で 病院などの就職先を見つけていた。

田舎から星薬科大学に進学している子は、比較的に裕福な家庭が多かったので、
お医者さんの娘さんも けっこういた。

医学部は6年間の勉強が必要だが、薬科大学は同じ理系の生命系で4年間で卒業できるので、
娘の結婚適齢期などを考えると、そう無理させないで、薬剤師を目指させるのだろう。



さて、私の場合は、就職せずに
東大附属病院薬剤部で研修生として病院での業務や調剤を勉強中。

これは給料をもらわずに、逆に月謝というか、月に一万円を払って研修するのだ。

目黒本町4丁目から(鈴木その子さんも、近くに住んでたらしい)、チャリンコを飛ばし、
学芸大学に行く。

学芸大学から東横線で中目黒。

中目黒から日比谷線で霞ヶ関か銀座で丸の内線に乗り換える。

もっとも 行きは、早く 丸の内線に乗りたいので 霞ヶ関から丸の内線に乗車し、
帰りは 銀座から日比谷線に乗り換えていた。

丸の内線で、最後は 「本郷三丁目」で降りて、徒歩10分間で
「龍岡門」をくぐり、到着した。



通勤 いや通学していたころの思い出といえば、
まずは 「丸の内線」。

当然 座れないので立って乗車しているのだが、
周囲を見回すと、半分は 「日経」。 

残りの半分の人たちは 「英字新聞」を読んでいたので、
なんと偏差値の高い地下鉄だろうと驚いた。

もう1つは、この季節は寒いので OLはブーツを履いているが、
「コツコツ」 「カツンカツン」 と地下の冷えた構内に やけに響く。

一人で ポツンとしながら、歩いていると、足音とともに孤独感が増した。



みんな一人。私も一人。

仕事をして生活を支えたり、勉強するのは大変だ。



一般的に 田舎と都会の違いなんて そうないと思うのだが、
「都会は、ストレスが多い」と言われるのも このような背景があるのかもしれない。



さて、眠い目をこすりながら通勤(通学)し、東大病院で研修していた私は
中国に旅行に行けると決まってウキウキしていたのでした。




次号のテーマは 「お金の価値」です。
実は 今回にそのテーマを特集する予定だったのですが、
時代背景を説明していたら 回想モードに突入してしまいました。





入国するときは、悪いことをしている犯罪者でもないのですが、
何回やっても緊張します。

それにしても、近代的な空港です。
日本の援助で建てられたらしい。