04/06/07 日本中医薬研究会 本部広報委員 土屋幸太郎
「海峡」 著者:井上靖 発行者:角川源義 発行所:角川書店
昭和33年9月5日初版印刷 昭和33年9月10日 初版発行
由香里の眼に防寒具に身を固めた夫が下北半島の荒磯に立っている姿が浮かんで來た。
その夫の姿はひどく孤濁であった。何ものをも寄せつけないものを持っていた。
彼一人であった。
その夫の心のどこにも自分は居ないと、由香里は思った。
その心のどこにもはいり込む餘地があろうとは思われなかった。
コクガン、コクガン、黒雁!
由香里は口に出して言ってみた。
現在の庄司の心の中には恐らく黒雁の啼き聲しかはいっていないのであろう。
由香里は黒雁という鳥がいかなる大きさで、いかなる形をしているか、想像することはできなかった。
黒雁というからには黒い色をした雁のような鳥なのであろう。
その黒雁だけがいまの庄司の心を掴み、恐ろしい力で彼を惹き付けているのである。
下北半島という東北の果ての遠い半島の荒磯にいる黒色の鳥が、
東京にいる一人の医師に向かって「おいでおいで」をしている。
そしてその医師は本職の方は心も虚ろに、今にもその鳥のへ歩み寄ろうとしている。
井上靖先生の名作である「海峡」の一節を紹介させて頂きました。
「海峡」の男たちが、心に傷を追いながら、下北半島を目指したように、
私の心の中にも下北半島からを一度訪れてみたいという気持ちが湧き上がってきました。
イザベラ・バード、吉田松陰らも通った碇ヶ関に前泊し、
翌日一路本州最北端の大間岬を目指しました。
辿り着いた先は、下風呂温泉「長谷旅館」。
2004年4月26日撮影 撮影:土屋幸太郎
井上靖先生は、実際にここの「長谷旅館」に数日間宿泊し、執筆の間も今もその当時のままで残っていますし、
井上先生が入られたお湯や湯船も当時と同じで、小説にもその場面がでてきますから、
井上靖ファンやコアな温泉ファン、また青森下北ファンにとっても、
また「日本野鳥の会」のみなさまも喜ぶ一人旅と言えましょう。
「海峡」は、渡り鳥に心を奪われた医師 庄司とその美しい妻 由香里、
庄司の学生時代からの親友 雑誌編集長の松村、
その部下である入社2年目の杉原と宏子が織り成す「男女5人恋愛物語」であり、
終始に渡り、渡り鳥がテーマともなっています。
井上靖先生執筆の間 中より、津軽海峡が見えます。
「長谷旅館」の2階には、井上靖先生執筆の間となった客室が当時と同じままで残っています。
午後3時ジャストにチェックインした私は、そこの部屋を見学させて頂き感動し、
また温泉ファンでありますので、名湯である長谷旅館の地下に向かう浴室に行き、
すぐさま「海峡」の主人公の一人 杉原や庄司たちと同じように湯船に身を浸したのでした。
「ほう、ついにやって來ましたな。東京からずいぶん遠くへ逃げて來たものだ」と言った。
庄司が「逃げる」という言葉をつかったので、杉原はぎょっとして顔を上げた。
「逃げた?どうして逃げて來たんです」
「なんとなく逃げて來たといった気持ちじゃないですか、ここまで來れば追っ手もなかなか探せませんよ。
そんな気持ちじゃありませんか」
「なるほど」
杉原は静かに言った。
そして何から何まで自分と同じような考えを持っては口に出してみせる庄司を、ちょっと不気味に思った。
ここまで來ればもう宏子の幻想は追いかけては來ないだろう。
杉原も自分も亦、宏子の幻想から逃げて、逃げて、ついにここまでやって來た、と思っていた。
〜中略〜
二人は二階の海の見える部屋へ案内された。
部屋へ荷物を置くと丹前に着替え、二人はすぐ階下にある浴室へ下り行った。
ここは近隣在住の村人の湯治場らしく、明らかに土地の人と思われる客が数人、浴槽の中へ沈んでいた。
喋っている言葉が、二人にはよく判らなかった。
泉質は硫黄泉である。
少しぬるかったが、少しぐらいぬるいことはいまの二人には問題でなかった。
躰の表面から、じわじわと湯が内部に向って浸透して來るように、杉原には感じられた。
ああ、湯が滲みて来る。
本州の、北の果ての海っぱたで、雪降り積もる温泉旅館の浴槽に沈んで、俺はいま硫黄の匂いを嗅いでいる。
なぜこんなところへ來たのだ。
美しい姫の幻影を洗い流すために、俺はやって來たのだ。
杉原は詩人になっていた。
「海峡」最後の場面では、編集者である松村と外科医で院長である庄司、
そして部下である杉原の3人が最果ての地でシベリアへ向かう 渡り鳥の啼き聲の録音に向います。
長谷旅館に泊まり、偶然にも昭和32年度の初版本を手に入れた「海峡」を読破して(この初版本はなんと、長谷旅館にも無かったのです!)、大間崎では風に吹かれ、津軽海峡に浮かぶ遠くの函館山やウミネコが大空を翔け飛ぶ姿を眺めていたら感慨深いものが、私の心の中にもぐっと込み上げてきました。
本州最北端 大間岬です。 遠くには函館山が見えます。
杉原も松村も、庄司も、3人の気持ちや考えかたは、まるで私の分身であるかのようでした。
私も逃げて逃げてきたのかもしれない。今夜は、とことんお湯に浸かろう。
誰も追ってこない。私も、こういうところに住むのが似合うかもしれない。
ああ、湯が滲みて来る、滲みて来る。
男たちの慟哭が、海や渡り鳥から聞こえてきた。
三人は寒さも忘れて、一言も発しないで耳を澄ませていた。
ひどい高い感じの天の一角だけに、幾つかの小さい星が出ていた。