中医学への誘い

01/05/04


高校時代は、化学と物理、数学の偏差値は 代ゼミで48、駿台で38という素晴らしい成績でした。


大体、中学校のころから、あの数学的な思考についていけず、
このままでは 薬剤師には なれないと思っていたら、
運の良いことに 指定校推薦というのものがあり、
東京は戸越銀座の星薬科大学に 山形の田舎から入学できました。

(ちなみに、「星」薬科大学というのは、単科大学で 薬のことを勉強するのですが、
創設者は あの 偉大なるSF作家の 星新一先生のお父様、星 一(はじめ)先生です。)


指定校推薦も、昼休みに 黙々と弁当を食べていたら、
「こうたろう〜! おめえ、こさ、入れ〜!」
と後ろの方から、バレー部の武田が叫んだので、見てみたら


「星薬科大学指定校推薦 1名募集 偏差値 3.5以上」と張り紙が貼ってありました。


高校時代は 剣道部で、それこそ 勉強なんかしてなかったので、
校内審査なんか 通るのだろうか?と思っていたら、それをパスして、現在に至っています。


担任の先生が メキシコオリンピック アマレス8位という強者で、
故 ジャンボ鶴田さんのことを 「あ、友美か!」という 素晴らしい先生だったかもしれません。


大学に入学したら、入学したで、一番怖かったのは 「留年」で、真面目に

「僕は、理数系に弱いから、大丈夫なのか?」と考えていたのですが、
良き資料と 良き情報と 良き友人 良き先輩 に恵まれ、
試験前は、学食、ラウンジ、デニーズ、アニーズ、学校の図書館、目黒区立図書館と場所を変えて
勉強し、というか、暗記しまくって、運良く合格してきました。


薬剤師の国家試験も、いい加減に、というか、ああいう類(たぐい)のものは、
一生懸命深入りすると はまってしまうので、
結局 星薬科大学伝統の 国家試験過去問5年分 丸暗記という 必殺技で乗り切りました。


薬剤師の国家試験は 学科ごとに足切りがあり、
私は 「薬事法規」という 今でも分からないものに ビビリながら、
420点取れば合格できるところを、426点を獲得し、これまた運良く薬剤師になりました。


「医師は、意思が弱いから、医師なんですね」という暴言もありますが、
私なんかは 「ヤクザ 石 になるのか、こうたろう〜」と高校時代に散々と言われたものです。


という分けで、文系人間が薬剤師になり、漢方をするということは、天職に近いという説明でした。


さて、本題に戻りますが、中国での中医学の歴史について、
張朧英(ちょう ろうえい)先生の 「臨床 中医学概論」(緑書房 昭和63年発行)から、引用させて頂きます。

(私は、「臨床 中医学概論」は、傑作だと思っていますし、好きな本です)





臨床中医学概論 第1章 中医学への誘い


2.中西医合作と中西医結合


中医に対して、現代医学を専攻している医師を 「西医」と呼んでいる。

よく世間では 「中西医合作」と 「中西医結合」とが混同されて使われているが、その意味は全く別のものである。

そこには中国の歴史的背景がある。

1949年、新中国が発足した当時、中国の医者の90%以上は 中医で、西医は10%にも充たず、
しかも大都市に集中していた。

当時の衛生部(日本の厚生省に当たる)幹部は、ちょうど日本が明治時代そうであったように、
中医は迷信、非科学的と決めつけ中医消滅諭を提唱し、中医に現代医学の試験を課し、
その医師資格を問うほどに至った。



しかし、時の指導者は その一派を排除し、中医の社会的地位を一応本来あるべき姿に取り戻した。

理由は中医学が完全に無用なものであるならば、人類社会の発展原理として すでに淘汰されているべきで、
何千年も継承されてきたには それなりの存在価値があったからであり、
人々の健康に大きく寄与してきた証拠でもある。

それゆえに中医学は 中華民族の財産でもあるし、
今後も研究し発展させなければならないということである。

この理由は反対派を含めて、だれにも否定できない事実であった。



1950年代後半には、中医は一応の社会的位置付けができ、政策により各総合病院に中医科、針灸科が設置され、
それまで、個人開業的存在であった中医が 初めて総合病院の業務に参加した。

各主要都市に中医学院および付属病院が建設され、高級中医師の人材の養成に努めた。

ただし、中西医の間では、お互いに反目し、攻撃し合い、少なくとも非協力的の傾向が強かった。

特に西医の頭のなかには、中医は非科学的、迷信的という概念が強く、
筆者自身も例外ではなかった。

それは一貫して現代医学の教育を受け、伝統医学を全く知らなかったためであり、
そして それゆえに、かえって、無責任な批判を続けてきた。

その根拠は非常に弱く、感情的要素が強く、むしろ その批判文章そのものが、
きわめて非科学的であるのに気がつく。



私は よくこういう場合 

「批判は大いにしていただきたい。それは中医学の発展に役立つから。
ただし お互いに医者であるし、科学者なのであるから、科学的に意見を出してほしい」ということにしている。

現代医学が、人間全体の現象をどの程度解明しているかというと、
わからない部分が ほとんどであるといっても過言ではあるまい。

我々医学に携わる者は、まず第一に科学的でなければならない。

そのために、まず謙虚に学ぶということから始めなくてはならない。

尊大になったその日から、すでに その人の科学の進歩もあり得ないはずである。

中医も西医も人々の健康に貢献するという目的は1つであるので、
お互いに協力し合うべきであるというのが 「中西医合作」である。



その段階がすぎると(1960年代)、中西医両者の長所を伸ばし、欠点を補い合い、
両者を有機的に結合すれば1つの新しい医学体系ができ、
よりいっそう高い医療水準がうち立てられるのではないかというのが 「中西医結合」である。

中国では、中西医結合の医学が一応体系付けられるには、今後200〜300年を要するだろうといわれている。

近年、日本と中国の医師同士が接触する機会が多くなった。

ところが、中国の医者に会ったところ、中医学を全然知らなかったとか、
中国の医者が中医学を頭から否定していたという話をよく聞く。

中国医学界の現状は、アメリカ医学を頂点とした人々が主流で、読者が意外に思われるかもしれないが、
中西医結合を本当にやろうという医師は、なお少数であるのが現実である。

また同時に、全体の流れからみれば、事情は好転しつつあるということも事実であり、時代の流れでもある。

それほど、中西医結合の道は、そんなに容易ではないということでもある。



であるから、現段階の中国の中西医結合は第一歩を踏み出したところだとみてよい。

現在 多くの人がさまざまな方法と判断で 「中西医結合」を試みている。

それゆえに、訪中された人たちが よくいわれているように、
「不統一で、雑念としている」という印象は まぬがれ得ないであろう。





3.現代の中医学について


前略。


中国では、1949年新体制発足後、各地に中医学院が建設され、系統的な教育による中医師の養成が始められた。

これは医科大学に相当する 5―6年制の大学であり、その講義内容は、西医の概論も含み相当に高度なものである。

卒業生は もちろん中医師として診療に従事する。


これら中医学院では統一された教科書を用いているが、この教科書は各地に散在する老中医によりまとめられ、
その後何度か改訂されたもので、これが現代中医学の基礎になっているとみてよいだろう。



このような経過から中西両医師が養成されるようになり、
そして その確保が保証されたことによって必然的に中西医結合による医師が要求されるようになった。



そこで中西医結合の人材を養成するため、徒弟制度や、
大卒3〜4年の西医を再び中医学院に送って中西医両刀使いの医者を養成する、
中医師に現代医学を教育するなど いろいろのモデルケースをつくって試行錯誤を繰り返したが、それぞれに欠点が多く、
最終的には 西医の高級医師に中医学を習得させ、臨床に応用し、
そのなかで経験を総括検討する方法が現今の中国での中西医結合の主流を成している。



中医学は 「内経」 「傷寒論」 「金匱要略」 「温病学」等を古典とし、それらを基礎理論としているが、
実際に運用する場合、これらに いたずらに固執せず、発展的に応用している。

これは、ちょうど我々が大学で習ったように教科書の記載どおりの患者には めったに遭遇しないし、
現実には それを発展応用しているのと同じである。


(引用させて頂きまして、ありがとうございました。「臨床 中医学概論」は、不滅の傑作です!)





2000年11月24日16時54分撮影

北京中医医学院前から、外を見た光景です。

私たち
は、外来での臨床実習や老中医からの授業など
一日のスケジュールが終わると、
衛生部で用意したバスに乗って
ホテルに戻ります。

今回は、王府飯店が宿泊所で、
すぐ近くだったのですが、
物凄い渋滞にあい、
いつも大変でした。

経済が発展すると、
今度は 車が進まなくなる。

これは、大変なことだと思います。