なにもたさない、なにもひかない

01/03/04


社会主義市場経済


天安門事件は、開放政策を逆転させるかに見えた。

欧米諸国は次々に非難声明を出し、
七月にパリで開かれたサミットは 中国に対する経済制裁や高官交流の停止を決めたからである。

もっとも、アメリカなどは そもそも本気で中国を孤立させるつもりは なかったし、
九〇年八月のイラク軍のクウェート侵攻に始まる湾岸危機は、中国と西側諸国にチャンスを与えた。

中国は国連安保理がイラクに科した制裁措置を守ると確約したことや、
安保理の武力行使容認決議に反対しなかったこと(棄権)で、
ECやアメリカと中国は 関係を正常化させたのであった。

さらに、九一年一月に始まった湾岸戦争は、もう一つ別な効果をもった。

アメリカ軍のハイテク兵器は、
中国の指導者に大きな脅威と受け取られ、軍の近代化の必要性を悟らせたのである。

さらに 東欧諸国の社会主義政権につづき、
ソ連までもが解体したことは、 「社会主義の平和的転覆」 として やはり大きなショックであった。

このとき、ケ小平(とうしょうへい)は ふたたびハンドルを右に切った。

彼の解答は、改革開放政策を推進し、市場経済を いっそう導入することである。





九二年一月から二月にかけて、ケ小平は 深しん、上海などを視察し、
その際 何度か談話を行った(南順講和)

彼はここで、従来の計画経済=社会主義、市場経済=資本主義の考え方を批判し、

「社会主義の本質は生産力を開放し、発展させ、搾取をなくし、最終的には ともに豊かになること」なのだから、
証券や株式市場なども 「断固実験すべい」だ、
一部の地区が先に発展することになっても、あとから発展する地区を
ひっぱることになるならかまわない、などの議論を展開した。

市場経済(資本主義)のシステムの積極的導入を主張する 「社会主義市場経済論」と、
一部の人間が先に豊かになることを容認する 「先富論」である。

同年三月、共産党中央は これを 「二号文件」として全党に配布、ふたたび改革開放のアクセルを踏んだ。





対外開放は従来の東部沿岸地区から 長江流域、国境地帯にも拡大され、
やがて全国的なものとなっていった。

九二年十月、中国共産党第14回全国代表会議では、
国家のマクロ的なコントールの下で 市場メカニズムを機能させることが確認され、
「社会主義経済」 が公認された。

また九三年三月の第八期全人代第一回会議は憲法を改正し、
第十五条は 「国家は社会主義経済を断行する」 とのべた。

(九九年三月の憲法改正では、個人企業や私営企業の 「合法的な権利と利益の保護」も明記された。)





九五年、一九八〇年のGNPを二〇〇〇年までに四倍増する目標は繰り上げ達成された。

九七年二月、ケ小平は念願の香港の 「祖国復帰」を前にして死去したが、
同年七月、香港は ケ小平が打ち出した 「一国二制度」論にもとづき、
中国の 「特別行政区」として資本主義体制そのままに 祖国復帰した。


香港経済九七年夏に始まる アジア金融危機で大きな打撃を受けたが、
東アジアにおける商業・金融センターとしての地位は失っていない。

(なお、九九年十二月、最後の植民地マカオもポルトガルから変換された)。





九八年三月、第九期前人代第一回会議は、新たな首相に、上海市長や副首相を歴任した
江沢民の腹心 朱鎔基(しゅようき)を選出した。

西側から 「中国のゴルバチョフ」 「赤い経済皇帝」 などとよばれ、
辣腕で知られる彼は、国有企業改革、金融改革、政府機構改革の三大改革を
三年間で実現すると公約、人々は大きな期待をいだいた。

九九年の建国五十年を祝う国慶節では、十五年ぶりに天安門広場で式典とパレードが行われ、
江沢民は八四年に ケ小平が乗った同じオープンカーで三軍を閲兵した。


このとき中国は、一九五二年と比べ、九八年のGDPが 六七九億元から
七兆九五三三億元に増え(実質 年七.七パーセント増)、
住民の消費も一人当たり 年八十元から二九七三元に向上したことを誇った。

人々の豊かさは、いわゆる三種の神器の変遷に見ることができる。

―自転車・腕時計・ラジオ(五〇年代)、ラジカセ・テレビ・冷蔵庫(八十年代)、
コンピューター・自転車・住宅(現在)。




以上の文章は、
小説より面白い中国五千年の歴史―「中国文明の歴史 12 人民共和国の成立へ」
中央公論新社 2001年2月25日発行 編者 内藤戊申 の解説のページに
京都産業大学教授 江田憲治先生が書いた論文を紹介させて頂きました。 (414〜416ページ)

ありがとうございます。中国に興味のある方は必見です。




今の時代の中国では、もう人民服を着ている人は 一人もいませんし、
みな 華やかな格好をしています。

携帯電話も急速に普及しているので、街角で 楽しそうに

「ウエーイ」(中国語で モシモシという意味) と お喋りしている人を 数多く見かけるはずです。


そうです。


中国は豊かになってきているのです。

経済開放に伴い、北京や上海の繁栄は 不景気の日本から見ると 羨ましいほどです。

大体、「中国人は やせていてスマートな人が多い」 ということが一般的に知られていて、
その理由は 「ウーロン茶を飲んでいるからだ」 などと 無茶苦茶な論理がありましたが、
それは違います。

もともと、食べたくても食べれない、などの食糧事情によるものが多かったのです。

摂取カロリーが消費カロリーよりも少なかったら、
太りたくても太れません。


よくアメリカでは 「太っている人」 「歯が汚い人」は、
自己コントロールが出来ない人として、出世できないという話を耳にしますが、
中国では 「太っている人」 は 経済的にも社会的にも 成功している人の象徴で
尊敬されます。

実際に、私は一昨年に 昂明(こんめい)に行ったときに、
地元のお医者さんが 自分が太っていることを 自慢しているのを見て

「あ! 本当だ」
と思いました。


「太っている」 ことは、その人が 大物なので 宴会などの接待が多かったり、
裕福なので 食べ物に困らないことを意味するのです。


(ところが、最近では 社会全体が豊かになってきているので、そうでもない場合もありますが。。)

先進国に住んでいる人の 「痩せたい」という気持ちは、贅沢なことですね。





さて、前回の北京便り 「王府井大街を歩こう!」からの 続きの話に戻ります。


ホテルの部屋で、長旅の疲れを落とすべく 休憩してから
ロビーで集合しました。


今回の北京研修では、私たちと同じ イスクラ高円寺中医学塾の同窓生
「チャッキー戸塚君」が ガイド役を引き受けてくれました。

彼は、北京の日中友好病院で 中医学の研修を行っていますし、
現地の事情にも明るいし、中国語も ペラペラなので、大役を任されたのでありました。


それだけでも有難い話なのですが、
現地の北京留学生も 何人かが集まってくれて 私たちの面倒を見てくれることとなりました。


見知らぬ土地で 日本人の仲間が サポートしてくれるのは、 心強いことです。


そこで、私たち 日本からの研修チームと 現地のメンバー全員が
各自 タクシーに分散して乗り込み
中華料理屋に到着、夕飯を供にしました。

その中には、漢方で 有名な先生も居たりして、大変 有意義な楽しい食事でした。


夕飯後は、「元」の手持ちが足りなかったので、
レートの良いところで 換金すべく、 「お茶屋さん」に向かいました。

その時は、王府飯店で両替すると、一万円が 大体 「730元」くらいでしたが、
お茶屋さんでは 一万円が 「760元」なのです。


表向きは 「お茶屋さん」

でも、中でやっていることは、「両替所」。

これは、不思議な感覚です。

日本には、こんなとこ無いですよね。


さて、タクシーの初乗りが 「10元」ですから、
この 「30元」の差は とても大きいです。


北京で暮らしている留学生たちは、当然ですが 口コミで
なるべく 換金率が良いところに行って、両替します。


裕福な 商社マンの奥様は、
「800元になったら 教えてね。。」
と、言っていました。

それまでは、レートが良いときに 両替した 「元」で生活していくらしいです。

留学生の子たちが言うには、
「一時、1万円が 600元くらいの時があって、あれは苦しかったですよ〜」
と、しみじみと苦労を語ってくれました。





2000年11月23日 22:45撮影。
場所: お茶屋さん近くの外の通り
撮影者:土屋幸太郎
道路を挟んで向かい側は 崑崙飯店。

お茶さんでは トイレを貸してくれなかったので、
崑崙飯店まで 小便に行きました。
崑崙飯店のトイレは、気持ちよかった。


あ、「大将」が 通せんぼにあっている。

大将は、当然 ニックネームですが、
彼は 福島県は 会津出身。

同じ 東北人。

高校を出てから、
しばらく日本で働いた後に 北京へ飛び出していった若者です。

もう 彼此(かれこれ)、6〜7年間は
北京に住んでいるという兵(つわもの)だ。




私たちは、いや、通常ならば
日本人は 「物乞い」や 「物乞い」の子供に弱いし、
嫌な思いを しばしばするものです。

故宮を観光して 
西太后を偲び、
「ラストエンペラー」の気持ちになっていると、

「3本で1000円」

「3本で1000円」
と、万年筆やら 白檀の扇子やらを 売りつける人たちに囲まれてしまいます。

うっかり バスの窓も開けられませんし、
なかなか バスが出発できなくなります。


万里の長城で、遥か彼方を見つめ、
漢民族の悠久の歴史に
思いを寄せた眼差しに

「社長さん〜、1000円」

「1000円」


こういうことに出会うと、
中国を好きになるか、嫌いになるか、
の分岐点になります。

大将は、やさしいから、
そんな子供たちでも 
遊び相手になってくれるのです。





大将の右手にいるのは、
「てっちゃん」。

てっちゃんは、
九州は 大分県 湯布院出身。

高校を出てから
土方の住み込みで がんばって稼ぎ
自分の資金で 北京にやってきた 兵(つわもの)だ。

大将と てっちゃんは、
同じ学校で 鍼灸の勉強をしている学生さんです。

将来は、日本に帰って 開業したいそうです。

私は、九州は ちょっと遠くて行けませんが、
会津若松で 大将が開業した際には、
馳せ参ずるつもりであります。


てっちゃんは、もう中国語は 完璧。

顔つきも似ているので、
本当は 日本人などの外国人は住めない寮にも
潜り込んでいる。

大家にも 中国人と思われて
夏休みとか 春節ときには、

「何故?お前は 田舎に帰らないんだ?」
と、言われるそうです。


また、今度 中国人のお嫁さんをもらい、
北京で 新居も見つけたそうです。

おめでとう!





大将が 掴まっている!

服を グイグイ引っ張られる攻撃だ。

私は、この行動には 弱いのですよ。


困ります。


私も 初めて 1991年に中国へ行ったときに、
上海で偉い目に遭いました。

子供が やってきて、
何故か? 一番 金を持ってないのに
私のところに来ました。

しきりに 口に指を当てています。

隣を歩いている 師匠のO先生に

「先生、子供が タバコ欲しいから、タバコ代ちょうだい」
って言ってますよ。

と言ったら、何やら O先生が 子供に やさしく語りかけます。

「土屋君、タバコ代じゃないよ。
口を怪我したから、治療費代をくれ」
って言ってたんだよ。




この子供たちが悪いんじゃないんだ。

親が悪いんだ。

子供を働かせて
自分たちは 後ろで離れて
そ〜 と見ているんだ。

こんな寒い夜に
風邪ひいたら 大変だろう。

子供は 早く寝なきゃ いけないんだ。

寝る子は育つのに。。

大体は、地方から 出てきた親が仕事が無くて
子供に こういうことをさせると聞く。





てっちゃんは、ほんとに
子供たちが好きだ。

やさしい人だと思う。

グルグル回して 遊んであげてる。

私は、何もできないから、
カメラを撮っているだけ。

夜の遊び。

子供たちも
わざと 汚い格好をしているのかな?

毎晩、こんなこと やってるのかな?




今回のコラムは、とても長いページで、スクロールさせるのが大変だったことと思います。

(本当は、ページを分割すれば良いのですが。。)


「社会主義の本質は生産力を開放し、発展させ、搾取をなくし、最終的には ともに豊かになること」なのだから、
証券や株式市場なども 「断固実験すべい」だ、
一部の地区が先に発展することになっても、あとから発展する地区を
ひっぱることになるならかまわない、などの議論を展開した。

市場経済(資本主義)のシステムの積極的導入を主張する 「社会主義市場経済論」と、
一部の人間が先に豊かになることを容認する 「先富論」である。


と江田先生は 述べていますが、
貧富の差が拡大していることは あまり良いことではないと 私も思います。

大人はいいけど、子供は 働かしちゃ いけない! と考えます。


今回は、「なにもたさない、なにもひかない」と どっかで耳にする題名にしましたが、
ありのままの事実を述べようという 気持ちからです。

また、少し躊躇(ちゅうちょ)しましたが、この現実の写真を掲載することとしました。