国際中医専門員への道

01/10/3


お蔭様で、9月23日〜24日と二日間に渡って
東京国際フォーラムでの 中国政府認定の国際中医専門員試験を無事に終えました。

北京からの中国国家中医薬試験センターの先生方、
イスクラ産業の中医師の先生方、日本中医薬研究会の方々、お世話になりました。

そして、小島君(私の友達)ありがとう。先生方には、感謝しております。

今回、必死になって勉強していて、中医学(中国漢方)の歴史と理論は 改めて深いと思いました。

また、中医学への愛情と尊敬が より一層、深まりました。

これからも、皆様のお役にたてるよう 努力していきたいです。

近々、国際中医専門員試験の受験を終えての感想を、コラムとしてアップする予定です。

これからも、土屋薬局 中国漢方通信を ご愛顧よろしくお願い致します。(01/9/24

謝謝! 秋の深まる山形から。 ホームページ責任者 薬剤師 土屋幸太郎

国際中医専門員という資格に挑戦することが決まったのは、今年の3月でした。


わりと 気楽な気持ちで受けようと思っていたのですが、
結局 学生時代なみの 壮絶な 試験勉強となってしまいました。


試験の1ヶ月前からは、
このままでは 試験範囲に追いつかないことに気が付き
毎晩 虫の音をBGMに 朝の3〜4時!まで、汗をかきながら、
また 涙を流しそうになりながら 必死になって 勉強していました。


本来ならば、この 「国際中医専門員」の資格は、
北京中医薬大学日本分校というところで 3年間も勉強しなければ 受ける権利がありません。


ところが、イスクラ産業、日本中医薬研究会の努力により、
私たちも 今年から受験できるようになったのです。


私も、東京の高円寺で 1年間ひたすら 中医学を学んでいましたので、基礎は出来ています。


けっこう楽勝かなと 余裕を持っていたのが大間違い。


最後は 必死の思いで勉強しました。





そもそも、漢方の本場 中国では、西洋医と中医師の二つの医師免許があります。

西洋医は、日本でいう いわゆる医師の資格です。

中医師は、中医学を専門に勉強し、実践の場でも 中医学を軸に 漢方処方で病気を治していきます。

病院でも、北京中医医院など 中医学を専門とした病院が数多くあります。


(土屋薬局 「中国漢方」通信は、「中国漢方」と分かりやすくネーミングしていますが、本当は「中医学」が 正式名称です。「中医学」とは、理論が整然としていている まさに科学的な学問なのです)


元来、中国では 民間レベルで 「草医(そうい)」 
または 「裸足の医者」など呼ばれる、民間薬や中医学による 治療が盛んでした。

それが、近代になってから 時の政府が認めないことになり、
あやうく中医学は 一時の日本漢方医学のように 絶滅しそうになったのです。


ところが、解放後(つまり 第二次世界大戦が終結し、中国が列強からの 侵略から開放されたこと) 毛沢東などの中国共産党の指導者たちにより、再び 復権を得たのです。


毛沢東や周恩来率いる中国共産党は、国民党と内戦を繰り広げ、
実に 東京からロンドンまでへの距離 約2万キロにも及ぶ、「長征(ちょうせい)」を行いました。

その間 物資が不足していましたので、
中国各地で 薬草や草医(そうい)たちの民間療法により
健康を取り戻していったのです。


では、ここで あの伝説の「長征」の時代、1934年にタイプトリップしましょう!






「長兄―周恩来の生涯」
著者:ハン・イースン 訳者:川口洋(ひろし)・美樹子 叶V潮社 1996年発行

(新潮社さん、ありがとうございます。)


「周恩来伝の決定版!」です。

映画 「慕情」の女流作家が、貴重な証言と体験から 「長兄」周恩来の実像と 
その時代を描く力作で、しかも 愛情あふれる一冊です。

私は、周恩来元首相のファンなので、写真を見ているだけで しびれます。



では、ちょっとだけ 扉のページを開いてみましょう!


左ページの、
左上は、「世界を揺るがせた握手 ニクソン米大統領夫妻 北京に到着(1972年2月)」、


右上 「柳州で治療中のホー・チ・ミンを訪ねる周恩来(1969年初め)」


左中 「田中角栄総理を迎える(1972年9月25日)」

左下 「金日成主席 病院に訪問 右端は周に後継者として選ばれた ケ小平(1975年)」




周恩来さんが 田中角栄さんと握手している写真は 「日中国交回復」のスタートです。

中国では、「水を飲むときに、井戸を掘った人を忘れるな」という教えがあります。

田中元総理は 最後まで、中国で尊敬されていました。




さて、本題に戻ります。

伝説となった 「長征」





「長兄―周恩来の生涯」 著者:ハン・イースン 訳者:川口洋(ひろし)・美樹子 叶V潮社 1996年発行より。

第二部(1924年―1935年)

122〜133ページより、引用します。どうもありがとうございます。




ここは 1935年の中国だ。


紅軍は またもや川を渡らなければならなかった。


こんどは大渡河は、そこで死んだ太平天国の叛徒(はんと)の怨霊(おんれい)が すすりなく川として、
農民出身の兵士たちの記憶に刻みこまれていた。


十九世紀に清朝を ゆるがせた太平天国の乱は、
いま おなじような反乱に加わっていた紅軍の兵士たちにとって、
遠い むかしの出来事とは思えなかった。


周恩来は、恐怖の的となっている川の堤を歩いた。


土砂降りの雨のなかで、奔馬(ほんば)のような 激流の水温は、
川に呑みこまれた 何千もの人々の亡霊の叫びながらに響いた。


橋がかかっているのは ただ一ヶ所、それも、
鉄の鎖(くさり)に幅の狭い板を はめこんだだけの吊り橋で、一度に一人しか渡れない。


おまけに 板は はずされ、対岸では 敵の守備隊が紅軍を待ちかまえている。


朱徳は 兵士たちを励まそうとして、「俺は幽霊なんか怖くないぞ!」と言ったが、あまり効果がなかった。


急ごしらえのテントのなかで 体を寄せ合って、周、毛(もう)、朱徳は 何時間も計画を練った。

少数の紅軍兵士を さらに上流へむかわせる。


そこには橋はなかったが、渡し舟があった。


中国の西のはずれで いまも使われている、小枝を編んでヤクや山羊(やぎ)の皮をかぶせた船だ。


兵士たちは 夜のうちに その船で川を渡り、背後から要塞を攻撃するのだ。





兵士は 一人ずつ渡り、全員が対岸に着いたのは一週間後、1935年5月29日のことだった。


彼らの目のまえに 大雪山の巨大な峰が そそりたっていた。


山道は 海抜五千メートルの地点を通り、空気は希薄だったし、凍てつく夜も 野宿しなければならなかった。


栄養不良で疲れはてていた兵士たちのなかには、酸素欠乏症で卒倒したり、
心不全で死亡する者も多かった。


ある女性が生んだ赤ん坊は、驢馬(ろば)の背にくくりつけた籠(かご)に寝かされていたが、
籠(かご)が揺れた拍子に 深い雪の割れ目に落ち、だれも その子を助けだすことができなかった。


「それを目のあたりにした母親は、いまだにショックから完全に立ちなおれずにいる。
あのとき、彼女は ぶるぶる震えだした。
いまでも彼女の手の震えは 止まっていない」


これは、23年後の1958年に 筆者が聞いた話だ。


いちばん悲惨(ひさん)な目にあったのは 輸送隊や厨房係の人たちだった。


中華鍋の重みが 心臓や肺に負担をかけ、半数が死んでしまった。


大渡河を渡ってからずっと、周恩来は 断続的に発熱、吐き気、腹痛に悩まされていた。


初め 溥ネルソンは、それが虫垂炎だと思ったが、
やがて肺炎と診断して 唐辛子(とうがらし)と生姜湯(しょうがゆ)を処方した。



周の体は むくんでいたが、担架の担ぎ手がたりなかったので、彼は 担架担ぎを手伝った。





素晴らしいですね。

ふだん日常生活で、何気なしに食べている食事も、時によっては「薬」となります。

まさに 「薬食同源」ですね。

このように、周恩来さんたちの紅軍は、戦略的に まさに 命をかけて撤退していったのです。

道中では、その土地の薬草などで命が救われていったのです。

北京便り 「長征 遥かなる道」も 参考にしてください)


「まったく効果の無い医学なら、我が 中国に伝えられ、現在まで残っているはずはない。
祖国医学を 専門的に統一して、系統だって 人民の健康に役立てよう!」



「中医学は 中国人民の宝であり、人類の財産である。よって、祖国医学と呼ぶ」
と宣言し、中国全土の中医学理論を統一し、なおかつ 各地に中医学院を開校していったのです。

北京中医学院や南京中医学院、上海中医学院などは 有名ですね。

なお、北京便り 「中医学への誘い」にも 中医学の歴史を 説明していますので、どうぞ参考にしてください。


さて、そのような形で 現在の中医学の普及や、教育に結びついていく分けですが、
私も その中国全土で統一された 教科書を使って勉強しました。





どうです。この教科書。


風格がありますね。

(ボロボロになるまで、勉強したのです。お風呂でも半身浴しながら、お勉強!)


今から、7〜8年前に、北京で買ってきました。
その時は、面白半分で購入したのですが、
今年になって 国際中医師の試験勉強で使用するとは、夢にも思いませんでした。


「中医内科学」


国際中医師試験の最大の山場です。

合計298ページ。


@感冒 A咳漱 B肺痿(はいい) C肺廱(はいよう) D哮証(こうしょう) E喘証(ぜんしょう) F肺脹(はいちょう) 
G肺癆(はいろう) H痰飲 I自汗、盗汗(とうかん) J血証 K心悸(しんき) L胸痺(きょうひ) M不眠 
N厥証(けっしょう) O欝証(うつしょう) P癲狂(てんきょう) Q癇証(かんしょう) R胃痛 S噎膈(いっかく) 
21:嘔吐 22:あく逆 23:泄寫(せっしゃ) 24:痢疾(りしつ) 25:霍乱 26:腹痛 27:便秘 28:虫証
29:脇痛 30:黄疸 31:積聚(せきじゅう)32:鼓張(こちょう) 33:頭痛 34:眩暈(げんうん) 35:中風(ちゅうふう) 
36:痙証(けいしょう) 39:水腫 40:淋証(りんしょう) 41:瘤閉(りゅうへい) 42:腰痛 43:消渇(しょうかつ)
44:遺精 45:耳鳴、耳聾(じろう) 46:痺証(ひしょう) 47:痿証(いしょう) 48:内傷発熱 49:虚労(きょろう)



と、ここまで病名診断の各論を、上記のようにアップしただけで、
私も 34:眩暈(げんうん)を 引き起こしそうになってしまいましたが、これだけのものを勉強し、
しかも 完璧にマスターしなければならないのです。


どうですか、読者の皆様。


いかに、国際中医専門員の試験が難しいか、お分かりになって頂けましたでしょうか?


では、中医内科学の教科書を開いて見ましょう!



当然、中国語の原文です。

日本語に翻訳されているものは、無いか、
または まったく参考になりませんので、
中国語の漢字しかない教科書を読破しなければ なりません。

ちなみに、ここのページは A咳漱(がいそう)です。

咳を 正しく弁証論治(べんしょうろんち)して、診断して、
治則を編み出し、方剤を決め、個人個人の体質に臨機応変に加減していきます。


中医学は、迷信ではありません。


立派な 「科学」であり、
先人たちの何千年もの 病(やまい)との戦いの中で築き上げた 「医学」であります。



咳漱は、外感咳漱と 内傷咳漱の2つに分かれ、
外感咳漱は、@風寒襲肺 A風熱犯肺 B風燥傷肺 に「証」を分け、
内傷咳漱は、@痰湿蘊肺(たんしつうんはい) A痰熱傷肺 B肝火犯肺(かんかはんはい)
分けて診断していきます。


たとえば、今の季節は 「天高く馬肥ゆる秋」ですね。


そうしますと、皆様 お分かりのように 空気は乾燥しています。

10月は、低気圧が張り出してきますから、軽い症状の人は 風邪。

アトピー性皮膚炎の持病を持つ人は、湿疹、アトピーが悪化しますし、喘息の人は、喘息が悪化します。


このことを中医学では、整体感(せいたいかん)と呼び、「人間は大宇宙の一つの存在である」とし、
自然の気候が 私たち人間に及ぼす影響を 深く考察していきます。


さて、咳漱で言えば、秋の乾燥した空気は 「燥邪(そうじゃ)」ですから、
もし コンコンと咳がひどい場合には、具体的に、咳の音の高低や性質、咳のひどくなる時間帯、
痰が出るか出ないか、または 痰の色、匂い、味、量などの情報
をもとに、
弁証論治(べんしょうろんち)していくわけですが、
「天高く馬肥ゆる秋」は、乾燥した「燥邪」が 私たちを襲ってくるのですから、
B風燥傷肺 が多く見受けられるであろう! と推定していくのです。


そうしますと、風燥傷肺の 治則は、「疎風清肺、潤燥止咳」

方剤は 「桑杏湯(そうきょうとう)」になります。


これは、温病(うんびょう)の方剤ですが、桑の葉っぱや、杏(あんず)の種、梨の皮を乾燥したもの、
クチナシ(梔子)の実や皮が配合された 「桑杏湯(そうきょうとう)」を服用していけば、
咳漱(がいそう)は 改善されていきます。


西洋医学の、ホルモン剤や気管支拡張剤、去痰剤などの使用方法からみれば、原始的かもしれませんが、
これは 私たちの先人たちが編み出した 素晴らしい科学であり、医学なのであります!


肺が燥邪(そうじゃ)の侵襲をうけたり、老人などで陰虚傾向があり 肺が乾いています。


西洋医学は、このような条件を一切、考慮に入れませんが、
中医学では 「肺を潤して、咳を止め、痰を切り、呼吸器疾患を改善していく」のです。


では、次回も 国際中医師の試験勉強の乾燥、いえ、感想をアップしていきますので、
お楽しみにしてください。